こんにちは!日本史サロンの河原です!
今回はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で描かれるであろう1年分のストーリーを解説しようと思います。
主人公の北条義時って今のところ振り回されっぱなしだけど、何した人なの?
と疑問を持っている人もいるかもしれません。
そんな方に向けて、できるだけ簡潔に わかりやすく 主人公・北条義時の人生を中心に 大河ドラマで描かれるであろうテーマを 解説していきたいと思います。
▼この記事は以下の動画の原稿をリライトしたものです。動画で見たい方はこちらをどうぞ!▼
運命の源頼朝との出会い
北条義時誕生
北条義時は1163年、伊豆国(現在の静岡県)で北条時政の次男として生まれました。姉に北条政子、そして兄として北条宗時がいました。
この時の義時は伊豆国でそこそこの武士の次男坊として気楽に暮らしており、父と同じく中級武士として一生を終えると思っていたでしょう。
源頼朝と八重
そんな義時の最初の転機は、姉政子が当時流人だった源頼朝と結婚したことです。
源頼朝は京都で勃発した兵乱である平治の乱で平清盛に敗れ、伊豆に流罪となりました。こうして、頼朝は政子や義時のいる伊豆へ罪人としてやってきたのです。ただし、頼朝は源氏の御曹司であり、伊豆では貴人として扱われ、女性関係についても厳しく制限されていたわけではありませんでした。
頼朝は伊東祐親の娘八重のもとに通うようになり、男児を設けました。これを知った伊東祐親は激怒。
八重と頼朝との間に生まれた男児を殺害、頼朝を襲撃しようとします。
姉政子と源頼朝の結婚
その後、頼朝は義時の姉である北条政子と通じ、結婚しました。
父である時政はこの結婚に当初猛反発しますが、政子が雨の日の夜ひそかに脱出して 頼朝のもとに駆けつけ、時政も結婚を認めたといいます(『源平盛衰記』より)が、近年の研究ではこの逸話は否定されています。
義時にとっては、頼朝が義理の兄になったのです。これ以降、北条氏は頼朝に全面協力していきます。
源平合戦(治承・寿永の争乱)
1180年、平清盛ら平氏政権が強権を強める中、それに反発した以仁王が「平氏を討て」という命令を源氏に下し、頼朝も挙兵することになります。
5年におよぶ治承・寿永の争乱、いわゆる源平合戦の始まりです。義時ら北条氏もこの挙兵を支え続けました。
頼朝は初戦こそ勝利したものの、続く石橋山の戦いで平家方の大庭景親に大敗を喫し、義時の兄宗時も戦死してしまいます。
その後、頼朝たちは真鶴岬(現在の神奈川県)から船で安房(現在の千葉県)に落ち伸びたのち、関東各地から集まった武士たちを引き連れ、鎌倉に入り軍事政権作りに着手しました。
平家の滅亡
1184年、平家追討のため、頼朝は弟である源範頼・義経軍が編成し西へ向かわせます。北条義時は範頼軍に従軍しました。
あまり知られていませんが九州における葦屋浦(あしやうら)の合戦で平家方をやぶり、頼朝は義時らに功績をたたえる書状を発給しています。その後、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡しました。なお、この時義時は九州にいたとされています。
奥州藤原氏の滅亡と頼朝の上洛
頼朝は1189年に東北地方を拠点としていた奥州藤原氏を滅ぼし、全国で敵対しうる勢力を排除しました。
頼朝と義経の対立が契機となったよ!
義経は奥州に逃れたものの最終的に自害してしまうんだ。
そして、頼朝は満を持して大軍勢を率いて京都へ行き、後白河法皇と面会し権大納言右近衛大将に任じられ、さらに1192年には頼朝は武家のトップを意味する大将軍を要求して、征夷大将軍に任じられました。
義時は奥州合戦や頼朝の上洛にも付き従っています。こうして、内乱の中で成立した頼朝の軍事政権が鎌倉幕府として恒久的な組織として存続する基盤が整えられたのです。
1193年には大規模な狩りが開催され、頼朝の腹心22名が任じられていますが、義時の名前はその最初に記されていました。義時は頼朝の側近として、頼朝に仕え、頼朝から学んだのです。
鎌倉殿の13人
13人の合議制とは何か?
1199年源頼朝が突然死去します。跡を継いだのは、頼朝の嫡男源頼家でした。
若年の頼家をサポートするため、有力御家人13人が合議して頼家に裁判を取り次ぎました。大河ドラマのタイトル「鎌倉殿の13人」はここからきています。
かつては、13人の合議制により頼家の政治権力が制限されたとされてきましたが、現在では頼家の裁判をサポートする機関と考えられています。
なお、北条氏からは時政と義時が名を連ね、義時は37歳で最年少でした。
梶原景時の変
頼家は側近として梶原景時と比企能員を重用しました。
そして、この頃から北条時政をはじめとする御家人同士の主導権争いが始まるのです。
まず、多くの御家人から恨まれていた梶原景時が御家人たちから弾劾され、鎌倉から追放されました。
梶原景時は侍所別当として御家人たちの行動に目を光らせていたことから恨まれやすい立場にあったんだ。
その後、景時は駿河国(現在の静岡県)で討たれます。これを梶原景時の変といいました。
頼家は側近の一人を失うことなります。
比企能員の変
さらに1203年、将軍頼家が重病に陥り、万が一に備え、頼家の子一幡と頼家の弟実朝に権限を分割しました。一幡を推したのが比企能員、実朝を推したのが北条時政だったのです。
二人の間で手打ちが行わましたが、時政は比企能員を騙し討ちしてしまうのです。さらに北条政子の命令で一幡の館に軍勢が押し寄せ一幡も死亡しました。
歴史書によっては一幡を殺害したのは義時と明記されているものもあるんだ。
さらに、頼家は病状が回復したにもかかわらず、伊豆の修善寺に幽閉され、翌年幽閉先で暗殺されます。
この後、3代将軍には源実朝が立てられました。
源実朝
畠山重忠の乱
このころから北条時政は専横を強め、一般政務を行う政所の長官である政所別当に就任、実質的に幕府政治を掌握するようになります。
政所
幕府の一般政務をおこなう。所領管理や文書発行を担当した。長官は別当。
このころ、時政は後妻である牧の方に入れ込んでおり、その牧の方と共謀して畠山重忠を謀反の濡れ衣を着せて 討ち果たしました。これを畠山重忠の乱と言います。
鎌倉幕府の準公式記録である『吾妻鏡』によれば、義時は時政の計画に反対したものの聞き入れられず、重忠討伐の軍を指揮しました。義時は陰謀は無実だったとし、友人を殺したことに涙して時政に抗議したと言います。
このような時政の専横は御家人の反感を買い、1205年に時政と牧の方は伊豆国へ追放されました。
いよいよ北条義時政権へ
北条義時政所別当に就任
時政追放後、義時は時政の政所別当を引き継ぎ、幕府政治を切り盛りするようになります。
将軍実朝は成長とともに統治者としての自覚を深めていき、その実朝を政子と義時らがサポートする体制が築かれました。
和田合戦
しかし、その一方で御家人同士の主導権争いは続きます。泉親衡の乱と呼ばれる大規模な謀反をきっかけに、侍所別当だった和田義盛と北条義時が戦闘となりました。これが和田合戦です。
幕府の御所を焼き尽くす大争乱となりましたが、和田義盛らが討たれたことにより合戦は集結しました。
義時は政所別当の地位に加え、和田義盛の侍所別当の地位も得ることになったのです。
侍所
御家人を統制する軍事機関。長官を別当といった。
源実朝暗殺事件
将軍源実朝は朝廷の後鳥羽上皇とも関係を深め、実子がいなかった実朝は後鳥羽上皇の皇子を後継者にすることの内諾を得て、官位も急上昇していきます。
源実朝は朝廷の官位では、太政大臣、左大臣に次ぐ、右大臣に叙任されるのです。
ところが、その右大臣のお祝いのための拝賀の儀式を鶴岡八幡宮で行いますが、その儀式中に突然頼家の子公暁が実朝を殺害してしまいました。
その後、公暁も暗殺されたため、この実朝暗殺事件は北条義時や三浦義村の陰謀とする説もありましたが、現在では公暁の単独犯行説が有力です。
九条頼経下向
この実朝暗殺事件により、朝廷の後鳥羽上皇との関係にも暗雲が立ち込めます。
内諾を得ていた皇子派遣は後鳥羽上皇の意向で中止となり、次善の策として、頼朝の遠い血縁であり、藤原摂関家の九条頼経(藤原頼経)が派遣されます。
しかし、頼経はまだ幼少であり、実質的な将軍の地位には北条政子が、それを義時が執権として支える体制が完成しましたが、このあと、義時には最大の苦難が待ち受けているのです。
承久の乱
承久の乱の勃発
実朝暗殺事件の結果、幕府と朝廷の関係は一気に緊張が高まりました。
各地で紛争が相次ぎ、ついに後鳥羽上皇は武力で現状を変更することに踏み切り、
北条義時を討て!
と命令を下します。恐らく「鎌倉殿の13人」の最大の見どころでありクライマックスであろう承久の乱の勃発です。
北条政子の演説
名指しで上皇の敵となった北条義時はピンチに陥りますが、姉政子が御家人に向かい有名な演説をします。
亡き頼朝公の御恩は山よりも高く海よりも深い。
この演説で御家人たちは結束し、幕府方は大勝利を治めるのです。
その後の戦後処理により、幕府の権力は強大化することになります。
なお、この時、義時は戦場には赴かず、義時の弟時房と義時の子供の泰時が派遣されています。
この幕府軍が出発したのち、義時の自宅に雷が落ち、北条義時は
朝廷に反抗した報いだ…
と恐れおののいたと言います。
義時の緊張が伝わるエピソードなので、義時役の小栗旬さんにぜひやってもらいたいシーンです。
北条義時の死去
承久の乱の3年後の1224年、義時は急死します。享年62でした。
伊豆の田舎武士の次男坊は、思いがけず歴史の波乱に巻き込まれ、苛烈な権力闘争を生き抜き、武家政権の頂点に立ってその生涯に幕を閉じたのです。